演出ノート 2002

LAST UPDATE: 11.07.2004
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椅子上演に際して 雑記

  座る人のない椅子は、精神の不在、モノの過剰な氾濫を描いているのだと解説されている(白水社)。 我々はそのことをどう受けとめればよいだろう。生まれたときからモノで溢れ返り、人は精神論では生きていけないことを教えられて育っている

  祖母の今わの際に立ち会っている。累年、蓄積した老廃物が内臓をふさぎ、 取り除いても生体を支える機能は果たせないそうだ。長い時間一緒に過ごしたせいもあり、最後まで苦しんでいる彼女を見ているのは忍びない。 もう少し楽な死に方は無いものかと思う。

  精神的に有意な生活とは無縁な時代に生活している。丸裸では生きていけないし、生活上必要なものもたくさんある。一度手に入れた便利さは 手放せないだろう。

  はじめは持ち前の気丈さと皮肉屋の気性から、「十分お別れしたからもう来なくていい。」などと握った手を跳ね除けたりしていたが、日に 〃痛みを訴える表情も少なくなり、このまま静かに逝くのだと思った。

  ぼんやりと、日本がある種の黄昏時にたどり着いているような気配を感じる。異常な投機で生まれたバブル経済は二度と戻ってくることは 無いだろうし、今後の高齢者社会を日本が実質的に支えられるか疑わしい。

  夜、発作のように手足をばたつかせ、搾り出すように声をあげる。「何で生かすの、殺して。」点滴を抜こうとする。掛ける言葉が見つから ず、「そばについてる、もう少しだからがんばれ」とうそぶく。微かな声を搾り出す。何か言いたいのだ。耳を傾ける。

  「日本はまだまだ元気である。悲観的な展望だけを上げるべきではない。」と、総理大臣がテレビで言う。

  「アンタガツイテイタッテショウガナイ」そうして、看護婦に安定剤の注射を打たれ、静かになった。何をか言わんや。 今のところ最後の言葉がそれである。自分の無力さと彼女の孤独な戦いに冷汗三斗の思いがした。

  黄昏 物事が終わりに近づき、終わりが見えるさま。

  生きることは、身が剥がされるような孤独を引き受けなければならないことの連続だ。せいぜい生きている間に珠玉のような孤独と戯れ て時を過ごし、幕引きで漆黒の孤独と向き合わなければならない。今>のところ彼女が残した言葉を、そう解釈して納得している。

2002年4月 『椅子』当日パンフより

混迷の道を突き進む現代の我々が、必要とする作家

 アコアで取り上げるチェーホフの2作目である。 チェーホフの言葉のやさしさ、意地悪さ、怖さが、混迷する日本の状況とうまく響きあうのではないか、という自分の直感の まま、彼の言葉に取り組んでいる。
  チェーホフの言葉は、なにがしの作家先生が書いたモノというような、大上段に構えたところがない。諭される こともなく、一見やさしいようでもある。が反面、特定の生き方を賛美するわけでもなく、誉められることもない。ただ 「自由たれ」である。そのまなざしが意地悪で恐ろしい。
  戯曲、小説の登場人物は恋愛に狂い、芸術に狂い、学問に狂い、遊びに狂い、その自由さの中で、生きていく事に 汲々としている。簡略に言えば、自由で汲々としているのである。それはまさに、現代を生きる我々の姿でもある。
  チェーホフの登場人物はみんな人生を懸命に生きている。その姿に感動するということもあろうが、実のところ、 「人生はもともと自由で、且つ汲々としたものである」というのがチェーホフの言い分であると思う。その人生の謎解き にせまり、常に自由と不自由の間でもだえる人間の普遍の心理にせまるというのが今回の演出の指針である

2002年8月 『講談ちえほふ』当日パンフより