演出ノート 2003

LAST UPDATE: 11.07.2004
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地域演劇対決

 濱崎さんの「宮城野」が、遊女の物語であるなら、アコアの「煙草の害について」 は、チェーホフの作品を借りて描いた、うらぶれた男の、ほんの一瞬間の妄想の断片である。
  人間は生きていると、現在の生活から脱却したい。と考えたり、現況を肯定してみたり、なかなか忙しい。時には、占いにたよっ てみたり、境遇のせいにしたりして、なんとか時をつないでいるようなこともある。流行の曲などにたよって気を紛らわすことな どもあるように思える。歌は自分を代弁してくれるような錯覚をおこさせるし、果てない憧れを与えてくれることもある。この舞 台にたくさんの曲が使われているのは、そういう人間の情動を舞台に起こしたかったということでもある。
  そういう人間の境遇をみて、笑ってしまうか、厭な気がするか、そこも、観客の方々の境遇によって、大きく別れるところだと思う。

2003年1月 『地域演劇対決』当日パンフより

たわむれ

 物語の大意のほかに、作品のみせどころは二つあると考えている。一つはこの短編は、恋愛に興じる人間を、 チェーホフなりの揶揄で、文字通り「たわむれ」として描いているのだが、実際に今回この言葉に取り組むのは、私と、現代を自立した女として 生きている女優とピアニストの二人である。小説に出てくる恋愛の狂騒状態でおかしくなっていく女性とは、まったく別の生き方をしている二人 である。
  今日日の女性は、恋愛にのめり込む事など望んではいないし、恋愛にロマンを求めたりしている方は少ないのではないだろうか。むしろ男の方が、 女性に日本的な過去の女性像を求めて四苦八苦しているというのが現代日本の偽らざる姿ではないだろうか。
  女性二人が小説「たわむれ」を扱う姿が、チェーホフの恋愛揶揄とかぶってくれば、現代女性の恋愛との距離の取り方も見えるのではないかと考えている
 もう一つは、ジャンルの違うアーティストの共調である。私にとっても未知の演出なのだが、ジャズの疾走感と俳優の体の疾走感があいまって恋愛の狂騒 状態のごときものを、表現できればと考えている。私はピアノの演奏に関しては憧れはあってもずぶの素人だし、沢山のことを彼女に委ねることになりそ うだが、音楽的に構成されてることを特点とするアコアの台詞と、ピアノの旋律。俳優の息遣いとピアニストの息遣いが、特異な二重奏となって観客の皆 さんに響くことを願う。

2003年3月 『たわむれ』当日パンフより

霧笛

 レイ・ブラッドベリの「霧笛」は、海に一頭だけ残された怪獣が、灯台の霧笛を、 仲間の呼び声と勘違いして上陸してくる小説だ。孤立した怪獣の叫びが、孤独な人間の心や、疎外感を感じて鬱々としてい る人間の心を想起させ、切なくさせる。
  しかし、まあ、小説に登場する怪獣ほどの孤独とは言わないまでも、一日の終わりにふっと悲哀を感じたり、一人残された 部屋で寂しい気持ちがしたり、愛する人間との別れに憔悴したり、自分の物事への感じ方が人と違うのではないかと孤立を感じた りするのは、誰にでもあることだろう。
  私がこの本にふれて考えたことはこうである。
  怪獣君!孤独はもともと人生と1セットですよ、さも悲劇ぶって、悲しげに叫んでみたりするもんでもありません。 後生大事に孤独を振りかざしたら、海の水はますます冷たいでしょう。
  引用を一つ。サガン「悲しみよこんにちは」冒頭

ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、
悲しみと言う重々しい、りっぱな名前をつけようか、
わたしは迷う。
(略)私はこれまで悲しみというものを知らなかった、(略)
今は、絹のようにいらだたしく、やわらかい何かが、
私に蔽いかぶさって、私をほかの人から離れさせる。

  女性は憔悴を、甘美なで価値ある言葉に置き換える天才だ!
  ブラッドベリは、孤独を男に語らせるのが照れくさく怪獣にたくしたに違いない。
私は私なりの「悲しみをこんにちは」を、小説「霧笛」を素材にして、一人の少女の 就寝前の淡い夢として、舞台上に表出してみたい。

2003年5月 『霧笛』当日パンフより

カチカチ山

 この『カチカチ山』は太宰治の小説、御伽草子の一編である。 太宰治らしい精緻な人間観察で、皮肉に自虐的に男の情癖を描き出している。
この太宰の視線に目を向け舞台を構成した。
  魅力的な女性を見つめる視線というのは、多様である。 一人の男の内にも、幾重の人間が住んでいて、あるときはシャイにあるときはずうずうしく男はふるまう。恋愛中の男が、 様々な思惑でぎこちなくなっていく姿をみるのは、同性としては照れくさくもあるが、覗き見て同情の思いをもつことも、 間々あることである。
  児童演劇のように、子供の嗜好品として侮れないよう な舞台にはなっているはずである。たかが狸と侮る無かれ!この狸は、どの男性諸君の内にも住んでいる、悲しくこっけ いな人間の「オス」の姿である。
  そして、男性演出家の私の願いとして、誠に勝手では あるが、女性の皆さんは、男の愛を受け入れる入れないの如何を問わず、ウサギのように意地悪くならず、愚かな「オス」 の思惑に優しく付き合って欲しいと思うのである。

2003年8月 『カチカチ山』当日パンフより

光苔−ドラマリーディング−

 今回の「ひかりごけ」は、パイロット版と銘打たれていますが、 未完成であるとか、途中過程というようなものではありません。
  もちろん、来年1月17日の公演を念頭に入れての公演ですが、 劇場とは違う趣の舞台を楽しんでいただきたいと思います。
  私は、劇場での公演と、ジュイエのようなオープンスペースでの公演は別物だと考えています。 どちらの空間にもそれぞれの理があります。
  劇場では、十分な舞台機構、照明や音響、舞台装置を駆使して、演劇を楽しんでもらうことができます。 プロセニアムアーチ、舞台と客席との境界にある開口の向こうは、あらゆる手を尽くして劇的な空間を作るため の我々のキャンバスです。しかし、強い照明のもとでは、俳優は、なかなか客席の方々の顔を確認したりするよ うなことはできません。
  一方、ジュイエのようなオープンスペースは、一度に多くのお客さんは集められませんが、 客席と舞台空間の関係はとても密度の濃いものになります。劇場になれば零れ落ちてしまう演出、演技も少なくはありません。 あの俳優のあそこの息づかいで、演出意図が分かった。などということもあるかもしれません。
  今夜は、照明、舞台装置、音響にこだわることはできませんが、その分十二分に、 密度の濃い演劇空間を楽しんでもらえたらと思います。

2003年11月 『光苔−ドラマリーディング−』当日パンフより