演出ノート 2004

LAST UPDATE: 15.11.2004
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人間椅子

 主人公はこの天地から抜け出すことはありえないだろう。他者との煩わしい関係を絶ち、椅子の中の暗闇で生涯 を終えることを選ぶに違いない。エンディングの種明かしは、彼の人間味ある虚言である。
  とかく人間というものは煩わしい。目を合わせれば関係が生まれるし、恋をすれば煩悶が生まれる。 生活の欲求は尽きることはなく、喜びに満ち満ちた時間は瞬く間である。 生身の人間には、必ずといっていいほどこのディレンマがつきまとう。
  この主人公はみごと(?)恋破れれば、息を潜め、我と我が身を、煩悶ごと椅子の中に閉じ込めて生 きていく。潔い決断である。その姿はロマンティックですらある。
  未来への可能性、金銭、夢、恋・・・・・我々を狂わせるいくつもの素地 を断ち切った彼に、じっくりと観察されるひと時をお楽しみください。

2004年5月 『人間椅子』当日パンフより

A.C.O.A.の夕涼み

   私の生まれた時、故郷には、紙芝居も見世物小屋もありませんでした。それでも、 みたこともない日本の娯楽文化に、なにかしらの望郷の念を抱くのは私だけでしょうか。
   欧米型の劇場文化とは一線を画す、A.C.O.A.演劇。そこから生まれた純一エンターテーメント。 カフェ・バー・ジュイエ、まったくのミスマッチとも思われる組み合わせ、奇妙な居心地の悪さを楽しんでいただきたいと思います。
  「ものいうどくろ」全然怖くない怪談であります。

2004年8月『ものいふ髑髏』当日パンフより

『新釈 九尾の狐−那須によみがえるファムファタル−』

 比類ないほど悪役なのに、こんなにも愛され続けている物語の主人公は珍しい。 だいたいにおいて日本には九尾の狐のように邪悪な主人公というのはほとんど存在しない。あまり悪人だとうけつけ にくいというのが日本人の気質であろう。
  この「九尾の狐」は、もとは中国の絶世の美女ダッキに化けていたとか、インドからわたってきたとか、出生に謎が あるせいもあって、とても愛されている。日本からでた悪役ではないということが、安心感をうんでいるのかもしれ ない。 悪役ゆえの魅力というものは必ず存在する。常人では計り知れないスケールの欲望をもっていたり、ちょっと自分で は口にはだせないような悪態をついてくれたり、日常から切り離された存在として、悪役は息の長〜い魅力を発し続 けるのである。
  我らが那須の地でも、悪役「九尾の狐」は毎年のようによびだされる。物語の主人公として、那須町のシンボルとし て、那須の地のPRのために。悪役とは名ばかりで、那須町と「九尾の狐」は、つれそう夫婦も同然の間柄である。 これからも那須野が原が元気である限り、「九尾の狐」の出番は尽きることはない。
  そういった「九尾の狐」の現代性を含めて、今回の物語「新釈 九尾の狐伝説」を演出した。新しい「九尾の狐」 のイメージとして可愛がっていただければ幸いである。ちなみに「ファム・ファタル」とはフランス語で「妖婦、 男殺し」の意である。 
  今回の演出にあたり、那須にゆかりのアーティスト達にに多大な尽力をいただいた。背景のイメージとなる木彫は、 那須在住の向井勝實氏。狐を飾る面は、猫ぢゃらしさん。楽器の演奏は那須を第二の故郷だと豪語する藤舎やしょ うさん。コーラスは地元コールススペランツァ。たくさんの才覚をもった人物たちを育む土壌である那須の地がよ りいっそう、内外に親しまれていくことを望む。

2004年9月『新釈 九尾の狐−那須によみがえるファムファタル−』当日パンフより

『女中たち』

 日本では、芸術という言葉よりもアートという言葉 が市井では市民権を得ていて、右も左も横文字が並び、ダンスのチラシも、演劇のチラシも、現代アートのチラシもローマ字のオンパ レードで、どうもそれが、若い人をひきつける秘訣らしい。
  今回の実験は、葉書のデザインからスタートしている。この公演案内の葉書の表をローマ字だけでデザインしてみた。反応は、すこぶる 良好である。「今回のチラシはいですね。」とか「このチラシお洒落ですね。」とか!演劇に興味のない方々も、チラシを手に取り喜ん でくれている。劇団員も喜んでくれた。なかには「わたし2枚もらいました。」という人もある。有難い話である。格好よくできたと我 ながら悦に入る。
  実はこの葉書には仕掛けがある。中ほどに落ちている色は実は漆である。日本の「朱」という色である。匂いをかいでみて欲しい。それ が漆の匂いである。只の漆も、現代アート風にデザインされると、なかなかよろしい。日本人は同化というものが得意な人種なのだろう。 はじめから自分の内部にあったようにセンスを取り込むことはとても上手である。(モーニングが皇室の正式なウエアだし!)そして そういう様態を違和感なく引き受けられる。
  もしも、欧米文化の恩恵なしに日本が、アジア文化が存在していたらなどと考えるのは、まったく不毛だと思うが、妄想として夢見たら どうだろう?無理か。我々の演劇も、西洋演劇のカテゴリーの範疇にあるのだが。それでももし、西洋文化をこの体から剥ぎ取ったら? 演劇は?ダンスは?現代アートは?ファッションは?食文化は?生活は?アメリカンベーシックへの隷属から脱出して、日本文化が世界 のベーシックになっていたとしたら?

  今回は、ジュネの「女中たち」を借りた、そんな文化テロリストの物語。

  A.C.O.A.だって横文字でした。偉そうにすいません。STスポットも、BankARTもみんな横文字ですね。本当に偉そうにすいま せん・・・・・この原稿だってWINDOWSのPCで書いているんです・・・・・

2004年10月『女中たち』当日パンフより

『煙草の害について』

 アコアの「煙草の害について」は、チェーホフの作品を借りて描いた、うらぶれた男の、ほんの一瞬間の妄想の断片である。
 人間は生きていると、現在の生活から脱却したい。と考えたり、現況を肯定してみたり、なかなか忙しい。時には、占いにたよっ てみたり、境遇のせいにしたりして、なんとか時をつないでいるようなこともある。流行の曲などにたよって気を紛らわすことな どもあるように思える。歌は自分を代弁してくれるような錯覚をおこさせるし、果てない憧れを与えてくれることもある。この舞 台にたくさんの曲が使われているのは、そういう人間の情動を舞台に起こしたかったということでもある。
 そういう境遇をみて、笑ってしまうか、厭な気がするか、そこも、観客の方々の境遇によって、大きく別れるところだと思う。
 そして、今回は、BESETO演劇祭のための、男と日本のダブルイメージという演出である。  
 経済大国政治小国といわれて久しい日本が、国際社会のなかで、どんな自負心をもって歩んでいけばよいのだろうか。たくさんのひずみが見え隠れするわが国でも、生活は続いていくし、我々は生活からは逃れられない。アメリカンベーシックに支えられている生活スタイルが国際関係の中で緊張を生み、また資源的な問題を孕んでいたとしても、現在の生活スタイルから逃れるすべが僕自身みつからないでいる。

2004年11月『煙草の害について』当日パンフより