演出ノート 2005

LAST UPDATE: 2013.05.08
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たわむれ

 物語りの大意のほかに作品のみせどころは二つあると考えている
一つはこの短編は、恋愛に興じる人間を、チェーホフなりの揶揄で、文字通り「たわむれ」として描いているのだが、実際に今回この言葉に取り組むのは、私と、現代を自立した女性として生きている女優とピアニストの二人である。それは戯曲に出てくる恋愛の狂騒状態でおかしくなっていく女性とは、まったく別の生き方をのぞんでいる二人である。今日日の女性は、恋愛にのめり込む事など望んではいないし、恋愛にロマンを求めたりしている方は少ないのではないだろうか。むしろ男の方が、女性に日本的な過去の女性像を求めて四苦八苦しているのではあるまいか。女性二人が戯曲「たわむれ」を扱う姿が、チェーホフの恋愛揶揄とかぶってくれば現代女性の恋愛との距離の取り方も見えるのではないかと考えている。

  もう一つはジャンルの違うアーティストの協奏である。ピアノの疾走感と俳優の体の疾走感があいまって恋愛の狂騒状態のごときものを、表現できればと考えている。私はピアノの演奏に関しては憧れはあってもずぶの素人だし、沢山のことを彼女に委ねることになりそうだが、音楽的に構成されてることを特点とするアコアの台詞と、ピアノの旋律。俳優の息遣いと楽器演奏者の息遣いが、特異な二重奏となって観客の皆さんに響くことを願う。

2005年3月 『たわむれ』当日パンフより

煙草の害について

   アコアの「煙草の害について」は、チェーホフの作品を借りて描いた、うらぶれた男の、ほんの一瞬間の妄想の断片である。
人間は生きているとなかなか忙しい。現在の生活から脱却したいと考えたり、現況を肯定してみたり、時には占いにたよってみたり、境遇のせいにしたりしてなんとか時をつないでいるようなこともある。流行の曲などにたよって気を紛らわすことなどもあるように思える。歌は自分を代弁してくれるような錯覚をおこさせるし、果てない憧れを与えてくれることもある。この舞台にたくさんの曲が使われているのは、そういう人間の情動を舞台に起こしたかったということでもある。
そういう境遇をみて、笑ってしまうか、厭な気がするか、そこも、観客の方々の境遇によって、大きく別れるところだと思う。
もうひとつのみどころは、男と日本のダブルイメージという演出である。
 経済大国政治小国といわれて久しい日本が、国際社会のなかで、どんな自負心をもって歩んでいけばよいのだろうか。たくさんの歪みが見え隠れするわが国でも、生活は続いていくし、我々は生活からは逃れられない。アメリカンベーシックに支えられている生活スタイルが国際関係の中で緊張を生み、また資源的な問題を孕んでいたとしても、現在の生活スタイルから逃れるすべが僕自身みつからないでいる。 
                                     某日 演出家

2005年3月『煙草の害について』当日パンフより

 恋愛はどこから始まるのか。「夜愛しい人の面影を追い、興奮して総毛立つ。」という女性もいるし、「街でお見かけした女性の姿が忘れられず頭から離れない」ということもある。「肉体関係を持ちたいという欲求こそが恋愛」ということもあるし、「相手を不純な欲望で汚したくない」というのも恋愛であろう。その価値は千者万別だ。が、往々にして、一度恋愛がスタートすれば、とかく多くの時間をとられるものだ。厄介な代物である。突然訪れる人生上の罠だ。罠と言い切ってしまうことは些かの誤解を招きそうだが、ある種の陶酔状態を作り出し、人間を前後不覚に陥らせる。そんな魔力を持っているものには違いあるまい。けれど、その厄介なものに一喜一憂しているのも我々である。
チェーホフは、恋路の粋人である。彼の言葉には皮肉な匂いが立ち込める。けれどもそこに信を置くかどうかは性別、年齢によって大きく違う。彼ほどの人間通でも現代の女性からは「男から見た一方的な恋愛観でしょ」と一蹴されかねない。今宵の女性の皆様にはなるべくなら、男の軽口として心やさしく受け止めてもらいたいというのが、演出家からの所願である。
 能ではなく「A.C.O.A.」で、鏡板の老松ではなくヒロセヒロシ氏の「赤と黒」で、「今能(いまのう)をお楽しみください」

2005年3月『熊』当日パンフより

セチュアンの善人

 人間は目的を持って生きる、そのこと自体は正当な感があるし、人間が人間として存在することの証は、そこにあるかのような思いにとらわれることもある。しかし、その目的までの道のりがコントロールや組織化、訓練、選択、排除を必要とする。しかし、人間性を解放させていくことは、結局のところ排除や選択を意味することもわかっている。
ブレヒトの視線は、ヨーロッパ人のキリスト教文化が、そういう矛盾の中にあるいけにえの文明であり、皆に代わって一人の代表、他の者の代わりに一人が十字架の磔になる文明であることを暴いて見せている。だがどうすればこういうパラドックスから開放されるのか?限度を知り、最小限の約束事の中で、あるがままを受け入れるには、どうすればよいのか?「最小限」とか「約束事」とかいった言葉の中にも、すでに問題がひそんでいる。つねに「最小限」の中身が肥大化し、とどまることはない。
我々アジア人もそういうパラドックスとは無縁ではなかった。今回の共同作業で、たどりついたのはその点であった。われわれの作業が芸術行為である以上、世間的なモラルにあわせて身をかわすわけにはいかない。我々は十分に闘わなければならない。我々にはその作業ができただろうか。その果てに立ち上がった舞台作品がどのようなものに見えるのか、観客のみなさんに確認していただきたい。

2005年9月『セチュアンの善人』当日パンフより