大人のための童話集 今回、アウトバーストさんの多大なご協力でこの企画が実現しました。
A.C.O.A.は、 主に、那須での稽古、都心での作品発表と言う形で活動をしています。今回は、那須での発表という初めての試みであります。演劇
作品というと、なかなかなじみの薄いところもあるかもしれません。テレビジョンで、音楽も芸能も楽しめる時代に、生身の人間が
集い、劇場を仕込み、照明を当て、劇空間を作り出すのです。時間もお金もかかるし、非常に効率の悪いようなところがあります。
では、なぜその労力を賭してまで演劇を観るのか?創るのか?
残念なことに、これは、劇場に足を運ばなければ分からないことかもしれません。観客は、劇場に足を運び、一、二時間ほどの、
幻想の時間を過ごすのです。その時間は経済的な効率も、生活の些末なルールも必要ありません。精神的で、自由で、感性に満ちた
時間です。演出家、俳優は、あらゆる手を駆使して、その空間を作り出さなければなりません。そうして、演じる側と観客は交流す
ることが出来るのです。人同士が直接、感性を通して交流できる時間。いわば精神的に贅沢な時間。そういえる時間をすごすことが、
老若男女関係なく必要だと思うのです。
文化が都心、地方の垣根を飛び越えていく時代になりました。都心に出なければ、文化に
触れることのできない時代は過去のものです。A.C.O.A.も、演劇と言う媒体を通して、那須の地で何が出来るか探っているところです。
2001年5月 『大人のための童話集』当日パンフより
椅子 2001 前回の椅子のアンケートに、「なぜ老人を演ずるのか」「何を表現しているのか」という評があった。にべもない。私は何か特定の社会問題を告発したくて舞台を作っているわけではないし、白髪にそめ皺ゝのメークで演ずるわけでもない。腰を曲げて老人のしゃべり方をするわけでもない。しかし、確かにこの老夫婦にたいする愛惜の念にかられつつ舞台を構成している。
この老夫婦がたまらなく好きなのだ。
満たされず、それでも充実感を求め七転八倒する姿に魅力を感じずにいられない。
現代人の私が、こんなにもこの夫婦に惹かれる理由の一つは、富裕な社会に生きて刹那の満足ばかりをもとめるわれわれに、二人の会話、行動が、精神にとっての本質的な問題を想起させるところにあると思う。滑稽でグロテスクな行動。回顧と夢想の繰り返し。尽きることの無い言葉遊び。過剰な事物に翻弄され、満たされない精神を振り回す姿…
2001年6月 『椅子』当日パンフより
戯曲との距離 作家との距離、戯曲との距離は、間違いなく私にとって
創作の礎になります。その距離が明確になっていくことが作品創作の大きな喜びの一つでもあります。
「ひかりごけ」という素材は小説家の作品であること、かかれた時代、登場人物の置かれた状況、その
どれもが現代を生きる私との距離が明確です。過去の戯曲であれ海外の戯曲であれ、現代人である我々
との距離を知ること、それが我々の生きるヒントになると信じてはばかりません。
死んでいく者、自ら死を選ぶ者、殺される者、生きる者。その諸行無常も舞台空間に起こしたいとおも
っています。そのことを示唆する小説家と本作品との距離も表現できればと思っています。
2001年8月 『光苔』当日パンフより
恋愛はどこから始まるのか 「夜愛しい人の面影を追い、興奮して総毛立つ。」と
いう女性もいるし、「街でお見かけした女性の姿が忘れられず頭から離れない」ということもある。「肉体関係を持ちたい
という欲求こそが恋愛」ということもあるし、「相手を不純な欲望で汚したくない」というのも恋愛であろう。その価値は
千者万別だ。が、往々にして、一度恋愛がスタートすれば、とかく多くの時間をとられるものだ。厄介な代物である。突然
訪れる人生上の罠だ。罠と言い切ってしまうことは些かの誤解を招きそうだが、ある種の陶酔状態を作り出し、人間を前後
不覚に陥らせる。そんな魔力を持っているものには違いあるまい。けれど、その厄介なものに一喜一憂しているのも我々である。
太宰治もチェーホフも共に、恋路の通人である。恋の逸話も数多い。それゆえ彼等の言葉には皮肉な匂いが立ち込める。けれ
どもそこに信を置くかどうかは性別、年齢によって大きく変わる。彼らほどの人間通でも現代の女性からは「男から見た一方
的な恋愛観でしょ」と一蹴されかねない。今宵の女性の皆様にはなるべくなら、男の軽口として心やさしく受け止めてもらい
たいというのが、演出家からの所願である。
2001年10月 『秋の熊狸は笛に寄る』当日パンフより
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